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ご挨拶

福沢諭吉の心訓に「世の中で一番楽しく立派な事は一生涯を貫く仕事を持つという事である」とあります。

「人生は芸術なり」という言葉をモットーに今日まで生きてまいりました。
芸術で食べていけるだけの器量を持ち合わせない小生ですが
50歳になればパトロンとして「絵一筋で生きていける様にしてやるよ」という甘い兄の言葉を信じて二人で会社を興して参りました。
しかし、人生は思い通りに行かないものでその年になった頃、兄は突然他界してしまいました。
それ以来、社業と画業の二足の草鞋が始まりました。
制作時間は極端に少なくなり足踏み状態が多くなりました。
バブル崩壊で不況の波をもろにかぶる日が流れて参りました。
一時は筆を折ることも考えたのですが、福沢諭吉心訓の一生涯を貫く仕事を持ちそしてそれを継続する事が結局は一番楽しく立派な生き方なんだと気づき
そしてその事を肝に銘じてこれからの余命を制作活動に情熱を注いで参りたいと思っております。

80才を迎えた昨今、50年とさかのぼる頃(大阪万博 1970年小生30歳のころ)元永定正先生のアトリエの門をたたき教えを乞うた時、
師より「今までみた事のない、人のやっていない、又まことにけったいな作品を描け」と石のしわを描く事から教えられました。
それ以来、細胞の如き細い緻密な作品になって参りました。
それが「君の絵はマンダラみたいだ」と云われ、小生もマンダラの奥の深い所はわからないが
生命の根源と生のエネルギーを意識して50年間描いて参りました。

小生の作品をご高覧いただき何か命の根源に少し触れて戴ければこれほど作家冥利につきる事はございません。
作品をご高覧賜り何かお感じになられましたら何卒ご教示賜ります様衷心よりお願い申し上げます。

2018年1月
平野 修作
◎連絡先 寝屋川市平池町35-16
(TEL 072-826-5584)




青春回想(真如詰(昭和57年)より)

 早いもので今年の高野山結集も、もうすぐです。昨年の結集で私は四班の班長に命ぜられ、また女人堂の前で、慣れないスピーチをやらして戴きました。
その折、私は自分の青春時代の思い出を通して「人の出会いの不思議さ」というものについて語らして戴きました。まだご記憶の方もあろうかと存じます。
 私は絵画の道を志して、今年で足掛け25年に成ろうとしており、この辺で一度、自分自身の総決算をしてみようと、5月に東京と大阪で個展を企画いたしております。今まで8年間余り、真如会にお世話になり、紀野先生の御教を絵を通して実践してみたいものだと常々考えております。その期に当り、青春時代を回想の初心にかえって、今尚若さ燃えたぎる情熱が、より一層生れ出ずる事を願って、拙いペンを執ってみました。

 昭和32年8月盛夏、当時19才の私は望んでいた美術学校には行かしてもらえず、悶々としながら府大農学部に通学しておりました。当時当校は仁徳御陵のそばにあり、その社前の玉砂利を踏みしめながらの通学でありました。授業が終わると飛んで帰り夜遅くまで絵筆を握り「南瓜」や「秋刀魚」や「樽」の写生に余念がありませんでした。ついつい興がのると時間を忘れてしまい翌日の授業時間は只管睡眠の時間に変ってしまい「お前は一体何しに学校へ来ているのや」とよく友人から冷やかされたものでした。
 当時は専ら現在の様な抽象画ではなく写実の道一本であり、デュラーやシャルダンや、日本では岸田劉生一辺倒でどこまで自然に迫れるか、また絵の基本は写実からと信じ、只管ねちねちと壁の染みまでみのがすまいと絵筆をふるいました。「自分の人生は絵しかない」と食事の時も寝る時も通学途上の車中でも、吊り革にぶら下りながら頭の中は、今描いている絵のことばかりで「どうしたら、あの南瓜のつやつやした朱の色がだせるのか」「どうしたら、ごつごつした皮の感じが出せるのか」「どうしたら、あの土壁の感触の表現ができるのか」そんなたわいもないことばかり考えながら帰宅すると、夢中でキャンパスに向かっておりました。
 勿論そんな状態ですから、学校の勉強はほとんど「可」で、中には追試験で辛じて及第する科目もありました。絵と勉強の板ばさみで、当時のあせりの苦い思い出が今でも、時々夢で現れてまいり、朝起きてみると寝汗をべっとりかいていることがあります。

 私は生来小心者で、偉い先生や地位の高い人に会うと話しができなくなり、寡黙になる、どちらかと云うと、目立たない控え目な生徒でありました。しかし当時「若い間に大いに旅をしろ」と父親替りの兄からよく勧められていて、それでは勇気百倍にして、日頃尊敬もし洋画界の高峰でもある坂本繁二郎に会ってやれ、と決心してその年の夏休みに、画伯訪問への旅を決心しました。

 当時、坂本繁二郎先生は、芸術院会員の推挙を断ること3度目とかということで、社会の話題をふりまいておられ、新聞や週刊紙を賑わしていました。絵を描くのにつまらぬ肩書きや社会的地位は要らぬ、かえって創作の邪魔になると、故郷の久留米に引き込もってしまわれていました。先生の絵は「馬」や「能面」や「植木鉢」など独特の幽玄的色調で描かれ内面的に限りなく奥深いものであります。その対象物への真摯な追究心は、若い私にとりまして年令を越えた親しみを感じ、また一方社会のどうでもよい肩書きをものともされない職人気質に、いたく私の心を打つものがありました。

 当時先生は、すでに82、3才の高令で眼を悪くされておられ、創作も思うにまかせず世間の人とのお付き合いも、ほとんどお断りになっているとの噂でありました。そうした状況で、紹介伏もない、見も知らぬ若僧が訪ねていって、会っていただけるかどうか全く保証はありません。
 とにかく美術年鑑で住所だけ調べて、自分の気に入った作品数点ほど、唐草の一反風呂敷に包み、背中にせたろうて博多行きの三等列車に、がむしゃらに乗り込みました。
 先生は高令だから、いつ黄泉の国に召されなさるかわからない。お元気な間に、尊敬する先生に一目自分の作品をみていただきたい。そのチャンスは今しかないと、小心者の心臓に鞭打っての出発でありました。めざすは福岡県久留米市ハ女郡稲富村の山間地であります。季節は8月中旬の猛暑の最中で、福岡に着いた頃にはすでに、白いワイシャツも汗と煙で真黒になっていました。今から先生の宅を探して行っていると、夕方になるやもしれぬと、少し早かったのですが旅館を探すことにしました。その折のささやかな出来事も、今では青春の思い出のなつかしい一幕でありました。

 あまり高そうでない、自分の懐に見合ったほどほどの旅館を物色していますと、たまたま間口の広いはいりやすい旅館が、一軒目にとまりおもむろに声をかけてみました。しかし一向に返答がありません。恐く昼の2時頃といえば、旅館も暇で昼寝の時間なのでしょう。
 何回か大声で呼んでいますと「ハイー」と黄ろい声がやっと返ってきました。左横の控室とおもわしき室の襖がしっーと開いて、真白いシミーズ一枚の若い女性が現れ、一瞬若い私は眼のやりばに困りました。(今ならゆっくりと鑑賞させていただきますものを)美人というほどではありませんが、肉付のよいぽっちゃりした年の頃なら19か20といったところの女で、その時の豊かな胸としなやかな脚とシミーズの白さが、若い時の右脳に鮮やかにやきついています。
 もちろん、彼女は顔を赤らめ、少し胸に手をあてがい、あわてて「あれ!」と自分の姿態に気がついて、魅力的なおしりをくねらせながら、先程の室に身をかくしました。恐らく寝起きで顔がぼーとしていたのでしょう。

 さて、一泊した翌日、炎天下の中を大きな風呂敷包みを背中に、また地図を片手に、久留米駅から稲富村を通過すると思われるバスに揺られること40分、—歩一歩目的地に近づいて行きました。静かな昼下りの鄙びた商店街を通過して、小さな家具店で先生宅をお尋ねすると、すぐに教えて下さいました。歩くこと30分、重い作品を包んでいる風呂敷が肩にくい込む痛さも、汗が滝の様に流れる暑さも、どこ吹く風と興奮でただ心が高鳴るばかり。辺りは右も左も黄金色に萌えたぎる稲穂ばかり、その細いいつも見慣れた様な気のする畔道を、一歩一歩踏みしめながら、身体は自然と巨匠の宅へ吸い込まれて行きました。あたかも初めての訪問ではないかの様に。しかし心の中は、本当に会っていただけるのか不安の暗雲が棚引いています。
 2、3軒の標札に目を走らせながら、比較的簡単に坂本繁二郎という標札をみつけることができました。家は普通の旧家の日本調の家で、平家であった様に記憶しています。おもむろに格子戸を問いて声をかけてみました。「ご免下さい」「ご免下さい」と2、3度繰り返すと、ようやくめがねをかけた、年輩の先生の奥様らしき方が出てこられ、押し売りでも来たのかというお顔で、不審そうに私をじっとみておられました。「何のご用でしょうか」とお尋ねになり、早速先生を尊敬する一人であり、ぜひ一度小生の絵を先生にみていただきたいので、大阪から出て来た旨手短かに話しました。しかしもう一つ気の進まない様なお顔で、頭を少し傾けながら「少々お待ちを」と奥へ引返えされました。恐らく本来ならば断る所であるが、わざわざ大阪からということなので、とりあえず主人と相談してみよう、という事の様に察せられました。運のいいことに、どうやら先生はご在宅かとまず胸をなで降ろしました。と申しますのも、先生のアトリエは自宅より2キロほど山奥に有り、毎日愛妻弁当持参の制作と聞いていたからです。

 数分位(本当はもっと短かったかもしれません)経ってから、先程の女の方が入っていかれた室から、和服姿の何度も何度も新聞や雑誌で拝見している翁のお顔が現れました。一瞬私は緊張しました。あの気難しい人間嫌いとうわさされている方が、私の様な若僧をつかまえて、どんな言葉が飛び出すか知れたものではない、と不安で仕方なかったからです。しかし奇しくも私の想像は瞬時にかき消されました。そこには翁の能面を想わすあご髭をはやした、小柄な老人が眼を細めてやや笑みを浮かべて立っておられました。私の心は氷に湯をかけた様に、緊張がとけていきました。一度にこの老人に親近感をいだいてしまいました。
 「さあ一、どうぞどうぞ」と、右手の六帖位の小じんまりした応接間に通されました。その室には、質素な応接セットがひっそりと置いてあるだけで、どこかの有名な絵かきさんの豪華な応接間と違って 、只管芸道一筋の観が漂っており、明るい南の窓からは、青々とした瓢箪が、今が盛りと大小さまざまな形でいくつも顔をのぞかせ、その合い間から時折涼しい風が、先生のやさしそうなお顔を私の顔を撫でていきました。そのすばらしい風が、私の緊張した体を少しときぼぐしてくれました。

 今、日本を代表する洋画界の三大巨匠安井曽太郎、梅原竜三郎そして坂本繁二郎、そのお一人と対座している、という気持ちはうすらぎ「一人の好々爺と世間話しでもしている」という雰囲気になっておりました。
 とりあえず本日の突然の訪問のご無礼をお詫びしてから、早速自分の作品を片隅の壁に立てかけていきました。「秋刀魚」「樽」「南瓜」「玉葱と里いも」「真楡なべ」の5点です。先生はじっと眺めておられ、暫し沈黙の後に次の様なことを云って下さいました。
 「貴方は色彩感覚にいい才能を持っておられるようですね」
 「自然を素直に観察し素直に表現している所がいいですね」
 「自然のリアルさをより一層追求し、真理を見極めようとするならば、目の前に見えている通りに描くだけではだめで、それに肉迫する為には、自分で一度消化して、より自分の感動を大きく表現する画策をやる必要があるのではないでしょうか。その為にはデフォルメ(変形)や存在色と異なった色をもってくることも一つの方法でしょう」。
 「コローの作品はすばらしい、一番自然に適った作品で、私の理想とする所です。現在は抽象ブームで、ピカソやマチスがもてはやされていますが、もっと日本人も一時的な流行に囚われずに、コローの様な自然な心で、自然を凝視して描く事が望ましいのではないですか」
 「最近は小生の如きへぼ絵かきの所へ、近所の寺の住職さんが色々と教えを乞いにこられます。もっともっと日本も、精神力の面でも強くならなくてはならないですね」。
 その他、るるお話を聞かしていただき、1時間半余りもの貴重な時間を、私如き若僧の為に割いて下さいました。ご自分の孫とでも話をなさる様なやさしさでありました。絶えず細い眼をより細くされて、一言一言丁寧に諭す様に話される言葉のはしばしの中に、画道一筋の哲人的な凛凛しさを秘めておられました。
 時を忘れて話される師に、余りにも甘え過ぎてはと思い、予め用意していた岩おこしの土産をおもむろにカバンから出して、誠に貴重な時間を頂戴した御礼を厚く申し上げて腰を上げました。先生はその品を片手に、私があみあげの運動靴のひもを結んで玄関先に出るまで、終始ニコニコとされ、私の会釈に軽く応えて「がんばって下さい」と一言励まして下さいました。あご髭をたくわえられた翁の顔は、笑みで壊れんばかりで、玄関先で飄々として佇んで送って下さった、和服姿の老大家の面影は、一生私の脳裏から消え去る事はないでしょう。そのお姿は、私を遠くからみやって下さる、慈悲深い菩薩の姿の様でもありました。

 それから数年後、88才のご高令で他界された事を新聞で知りました。その後皮肉にも数年間、私は全く絵がかけなくなり、一時は絵筆を折ることさえも考える悶々とした年月を迎える事になりますが、新たな気概で再出発する迄のその間、心の葛藤の中に絶えず師の菩薩の導きがあり、今日大きな生きがいとして絵筆を握っておられるのも、その導きのお陰であろうと信じております。
 大阪を出発する時には、「願わくば先生のアトリエや、作品もみたいもの」と思っていたのですが、先生にお会いでき、同時に作品までみていただいたという喜びで、小心の私には、それ以上甘えた事が云えず、ちょっぴり物足りなく思っていました。そこで、帰りにかねてより先生の作品が常設してあると聞いていた、石橋美術館に、翌日立寄る事にしました。しかし当館へ行ってみますと、特別企画展の為すべて地下の倉庫に片づけてあるとの事。

 受付で意気消沈している私をみるにみかねてか、責任者らしい青年が近寄ってこられて「特別にみせてあげましょう」と地階に案内して下さいました。普通ならば、まず名画等の貴重品がつまっている倉庫等には関係者でさえ容易に入れぬものを。何んとラッキーなことか、私の心臓はまたこきざみに震るえ出しました。20坪程のー室には所狭しと坂本繁二郎と親友でもあった青木繁や梅原竜三郎、安井曽太郎、古賀春江、藤田嗣治等大巨匠の作品と混って、坂本先生の「放牧三馬」「牛」「肉弾三勇士」の大作が無造作に立てかけてありました。薄暗い中で、青年のかざして下さる裸電球のもとで、繁二郎独特のやわらかい幽玄の世界にしばし酔っていました。
 一通り見終ると、まだ物足りない様に見受けられたのでしょうか、この青年は「もっとみたいのなら、丁度、大阪から収集家が来ておられ、その方の所に行けば、十数点はありますよ」と誘って下さいました。私は渡りに舟と、好意に甘えて、彼の呼んで下さったタクシーに、その方と乗り込みました。10分間はど久留米市街を走り、やがて、古風な白壁の美しい倉の前に停りました。事前に電話されたとみえて、中から45、6才の一見岡本太郎風の紳士が、ステテコとランニングシャツといういでたちで、団扇を使いながらニコニコと中へ案内して下さり、同乗の青年は、二言三言私の事を依頼されて立ち去られました。

 土倉の中は外気に比して窓が少い割に涼しく、その中に作品を格納される理由が理解できました。八畳位の室の中は、坂本繁二郎の作品で溢れんばかりで、代表的な名作「放水路」「能面」「自画像」「砥石」、渡欧時の代表的作品「帽子を持てる婦人像」など、今でもその時の感動が頭に焼きついております。美術館の倉庫でみた時より、作品は10号前後の小品がほとんどでありましたが、室も明るく、時折涼しい風が汗ばんだ首すじをなでていき、その紳士と2人で心ゆくまで鑑賞させていただきました。見も知らぬ私の様な若僧に、かくも親切にして下さったお2人に頭が下ると同時に、本当に出合いの不思議さを痛感いたしました。
 岡本太郎風紳士は久我五千男と申され、坂本繁二郎の作品はすべて、この方を通じてでないと手にはいらず、坂本繁二郎をこの地位まで、社会的に持っていかれた陰の功労者だと聞いております。現在「かくれキリシタン」の研究と故郷の福岡で、久我美術研究展示館を設立されて、その館長としてご活躍中であります。

 一方、石橋美術館の好青年は、その倉の前でお別れしたままで、昨年まで25年間交流は全くありませんでした。たまたま朝日新聞の文化欄で、ある記事を読んでいました折、その執筆者の名前をみて「はてどこかで聞いたことがある名前だなあ」と思い、確か増田洋という名前は、あの好青年ではなかったかと気になり、久我氏に問い合せますと、正にその方でありました。
現在、兵庫県立美術館の学芸課長をなさり、色々な美術展の審査員や評論や講師として大活躍のご様子であり、早速25年ぶりに、その時の御礼に馳せ参じました。私の記憶も、また増田氏の記憶も、美術館の一室でお会いした時は、長い歳月によって、お互いにその姿はさ程さだかなものではありませんでしたが、あの人の良い温情豊かな親切なやさしい眼は、紛れもなくあの時の好青年のそれでありました。
 此の年の夏の数日間の思い出は、一期一会を地で行く様なものであり、また私の人生にとってかけがえのない数日間でありました。
 毎年8月が来て、熟稲が重い頭を垂れ始め、水田が黄金色ー色に輝き渡る季節になりますと、汗を拭き拭き若き情熱を一ぱいふくらませて、坂本先生にいそいでいた時の稲富村のことを思い起こします。畔道の廻りに広がる筑豊の黄金の大海原、そしてその上を吹き抜けていったやさしい風を、昨日の様に彷彿として心に甦って参ります。

 あれから20数年という歳月が流れ去りました。都会子の私が時折出かける真夏のドライブで、車窓にとび込む黄金色は、まだあの時の青春の熱い息吹がこころのどこかにあることを教えてくれます。そしてそのこころは、今でも限りない狂気と正気の狭い芸道への旅立ちへかり立ててくれている様です。